Citta Vrtti

自分の勉強や練習の時間をなるべく作り、改めてヨガスートラやバガヴァットギータの教えを日常生活で実践している。ヨガスートラの1-2の中でパタンジャリは「ヨガとは意識(心)のゆらぎを制御すること」と定義している。ここでいわれる意識の揺らぎについてまとめると、

感覚による認識「感覚器官と因果関係」
誤謬「個人的な偏見による誤った知識」
概念観「経験について思考すること」
記憶「過去の経験に基づいて概念を形成し、現在の経験にフィルターをかける」
眠り「無存在を信じる」

これら5つの意識揺らぎによって私達はエゴイズムに捕われたままになる。私は「ヨガはエゴイズムの意識を浄化するプロセスである」そして「エゴイズムとは自分と自分の本質ではないものとを混同してしまう習慣である」と、クリヤヨガで教わった。私達が持っている個有の名前や職業、私の場合「東エマです、ヨガを教えています」などの属性の存在は夜眠りにつく度に忘れ去られるけれど「自分」という感覚(真我/アートマン)は持続する。

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普段私達が話す言葉の中で頻繁に出てくる「私」という言葉、「私は嬉しい/悲しい」「私は恥ずかしい」「私はそう思います/思いません」といった言葉は絶えず変化し続ける心の状態について話しているのであって、心の状態を観察している真我(アートマン)は幸福感、羞恥、恐怖感、苦痛、思考や行為、自意識などではない。

パタンジャリはヨガスートラ1-4の中で”観る者である真我(アートマン)と考え(ブルッティ)を同一視しない”と書いている。例えば空を見上げ天気を観察する時、たとえ嵐が吹き荒れていたとしても、それを観ている自分自身が変わらないのと同じように、心が苦悩や嫉妬に乱されている状態というのは、空を見上げている自分と吹き荒れる空模様を同一視しているに過ぎない。ヨガを教えていると、出会う人の中に「自分自身が何を求めているかが解らない」という人がよくいるけれど、これもブルッティ(心の動き)と真我(アートマン)をサールッピャ(混同、同一視)しているからである。心の苦悩や怒り恐れは絶えず変化し続け流れていくもの。そんなものは自分自身の真我(アートマン)ではない。苦悩は単なる自分のなかにあるコンセプトの1つで、苦しみや混乱というのは我々が持つ考え方の癖(パターン)であり、それらと自分自身のサールッピャをなくしていくプロセスこそがヨガであると聖典で教えられている。

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